般 若 心 経
般 若 心 経 意 訳 / 味 岡 良 戒
仏様が大変勝(すぐ)れた、貴い智恵を以って、人々を苦しみ(迷いの世界)より、安楽な境地(理想の世界)に到らしめる、真随を説かれた、大切な心のよりどころの 経
観自在菩薩(観音菩薩)が、大変勝れた、貴い智恵をもって、この世界に於いて、死におののき、無常のちまたに迷う人々の苦を救うために精進努力を行じ修していられる時に、先づ世の中には、不変の実態というものはなく、悉(ことごと)くが因と縁との和合によって、できているもので、常にうつり変わっている、これが世の真実の理法(すがた)である。此の宇宙の真実のすがたを知り、実践することによって、人々の一切の苦しみを除き、安楽の岸(理想の世界)に行くことができると、導かれるのである。
舎利子よ(あなたよ)今世の中のすべての、物も、心も因縁生(いんねんしょう)だと述べたが、此れを更にくわしく云って見よう。
すべての物について考えて見るに、色(しき・現象)といい、空(くう・非現象)と云っても別にあるものではなく、因と縁との結合によって、仮に個々の差別の姿を現していて、因と縁とを離れてあるものではない。一つのものの見方であって、色と云う現象の世界も、何もないと思う目に見えない世界も、本質的に見たときは、因と縁とが結合し、時々刻々に変化しているすがたであって、空は色の体(たい)であり、色は空の用(はたらき)である。固定した現象の世界も、非現象の世界もない、私が宇宙であって、宇宙が私である。人間の感覚も、想念も、動作も、精神も共に因縁によるもので、主観と言い、客観と言い、すべて空なるもので、妙有の存在である。
是等の色々の因縁結合の世界は、本質的に見た時には、すべて宇宙の変化のすがたで、無から有が生ずるのでもなく、有るものが無くなったりするものでもなく、よごれていることも、別に清浄であるという差別もない。又増減もないのが真実のすがたである。即ち本性は、物でもなければ、心でもない、然し仮のすがたとして、種々の縁により現象として現れている。
二つのものの対立も無い。
是の故に因縁結合、流転変化の世界には、色たる現象の、物も、心のはたらきである受、想、行、識もなく、認識の根本である眼、耳、鼻、舌、身、意の六根もなく、又認識される六境の色、声、香、味、触、法もない、又一切の分別の世界もない。
そこには執着するべき心も、物もない、主観も客観もない、だから無明から始まって死に至る、固定した生死流転の十二因縁のすがたもなく、又、なやみ、迷い、さとり、おしえの四諦の説も、それらは人格完成への真理の道であっても、真理そのものではない、だから一切は空であると達観した智恵もなく、苦もなく、楽もない、迷もなく、悟りもない、固定したものは何一つないから自由自在であって、理想の世界に到達することができる、何となれば本来無所得であるからである、これが本来のすがたである。
人々は般若波羅蜜多にしたがって、修行して一切のものはすべて因縁生であることを知り得て、智の必要もなく、徳の必要もなき仏智に帰依して、心の中の(さわり)(さまたげ、ふさがり)をなくし、自由自在に理想の境地(さとり)に達することができると知る。したがって恐怖(おそれ)だの、誤解だの、夢想(妄想)などがなくなり、人格は完成されて最極の涅槃(さとり)を証得するに至る。これは無所得なるが故である。
過去、現在、未来の三世にわたって、常に住していられる仏(立派な人)も、この般若波羅蜜多(仏智に到達する大行)を修することによって、この上もない平等の智恵、無上の道、を得られたのである。
般若波羅蜜多とは、あまねく宇宙を含めた、不思議の神通力があり、人の心を明るくする力があり、此れに過ぐるものはない最上の力があり、最高の覚位の仏にも等しくなる力のある呪文である、呪文とは陀羅尼のことで、人々の一切の苦しみ、災難、等を除く神秘な仏の真実の言葉である、これを唱うれば、利益霊験は、はなはだあらたかであり、真実であって、うそいつわりのない広大無辺の功徳があって、私達をしあわせに導く深遠なる般若波羅蜜多の心咒である。その咒は、
掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)
であると。

